「監督って何だろうか」童貞。をプロデュース 舞台挨拶

偶然Yahooニュースで知った。

出演者が監督による性行為の強要訴え 監督、配給側が「事実無根」と否定

お知り合いではないし、調べたくらいなので真相は分からないけど、
作品として出来上がった結果に、
演出側と出演者側の意見が、感想が食い違っているようだった。

それもかなり深く。

この件については多くの人が心を痛めていると思うので
個人的な感想や意見は控えたいと思う。

ただこれを機に僕ら監督は、
監督という役割についてよく考える必要があると思う。

今回は出演した加賀賢三さんが声をあげたから問題は明るみになったけど、

本当は氷山の一角で、
今回のような相違は映画やドラマ界、ドキュメンタリーの現場では日常茶飯事だと思う。

演出はいい作品を作るのが宿命。
だけどそのために何をしてもいい、というのは違うと思う。

僕は元々役者だったら分かるけど、
自分の肉体、顔、性格、全てがスクリーン上にさらされたとき、とても怖い、と感じた。もちろん上映会で拍手をもらったときは嬉しかった。でもそれでも、すごくリスクを負っているように感じた。

作品が失敗した時、監督はリスクを負う。あいつはつまらない監督だ。売れない監督だ。
もちろん批判もある。

でもそれは批判であって、映像には残らない。
みんないつかは忘れてしまう。

では役者はどうだろうか。
望まないカットが使われ、自分が本意じゃない自分が上映され、
DVDになり、掲示板で使われ、やがてその動画はGIFになり・・・

その映像は消えない。
その映像が、その役者が存在した唯一の証拠となって、一生残ってしまう。

ドキュメンタリーだったら、
その人の内面までを暴くから、その恐怖はなおさらだと思う。

それが表に出る人と、
舞台裏にいる人の大きな違いなんだと思う。
作品へのリスクは同じく抱えているけど、全然違う。

だからこそ僕たち監督は、
その後の役者の事も考えて作品をつくらなければいけないと思う。

例えば、役者が素人同然で、
作品をよくするために川にも飛び込むという。

監督はどうするだろうか。
面白そうだからやらせてみるだろうか。

そんなシーンは「映画」らしいから、
「役者は役に成り切る」論を振りかざして飛び込ませるだろうか。

例えばオフレコで、
ドキュメンタリーの被写体が内緒の話をしてくれたとする。
その人が墓場まで持っていきたい秘密。
その秘密を作品に盛り込めば、作品は必ずヒットする。

でもそこで、僕たちは考えなくちゃいけないと思う。

それをやって本当に作品がよくなるのだろうか。
その描写がないと、本当に成り立たない脚本なんだろうか。
その描写を入れた場合、役者や被写体にどんな影響があるのか。
少し時間を置いて、自分と話す必要があると思う。

撮影で全てを決定できてしまう監督には、
大きな責任がある。

そのディレクションは本当に作品のためなのか、
それとも自分のエゴなのか。
はたまはエゴが姿を変えた「作品のため」なのか。

監督はいつも役者の隣にいてこそだと思う。
それは作品が完成した後も同じ。

生まれてくる映像に生涯責任を持つくらいの意識がなければ、
簡単にディレクションをしてはいけないと思う。

そのディレクションは、だれかの一生と直結しているから。

同じ方向を向いているからこそ二人三脚ができるのであって、
いい作品がつくれるのあと思う。

映像に携わっている人にとって、
今回の問題はしっかり自分ごととして考え、処理しなくちゃいけない。

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